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懶惰宗他力本願寺

自らの力によらず、何かの力すなわち他力を頼み怠惰な生活と往生を願うことを要旨とする懶惰宗の本山、及び架空の宗派。

書評 『金閣寺』三島由紀夫 著


身辺整理して発掘されし遺物=大学1年生時に課題で提出した文章を残してみようの会。
内容は変更しないが、読み辛い箇所は加筆・修正している。

H22 「日本語表現」授業内課題

三島由紀夫金閣寺』(新潮社 1956)

あらすじ

 金閣寺の美に魅せられた「私」は、父の教えから金閣寺の美を妄信するようになる。しかし、成長した私は次第に美の呪いに悩まされるようになり、最後には呪いを断ち切るため金閣に放火してしまう。

気になった部分

「しかしそれから先の彼女は別人になってしまう。おそらく石段を上りきった有為子は、もう一度私を、われわれを裏切ったのだ。それから先の彼女は、世界を全的に拒みもしない。全的に受け容れもしない。ただの愛慾の秩序に身を屈し、一人の男のための女に身を落してしまった。」(第一章)

「彼には夭折の兆候として微塵もなく、不安や憂愁を生れながらに免かれ、少しでも死と類似の要素を持たなかった。彼の突然の死はまさにそのためだったのかもしれないのだ。純血種の動物の生命が脆いように、鶴川は生の純粋な成分だけで作られていたので、死を防ぐ術がなかったのかもしれない。」(第五章)

「そのようにして金閣と人間存在とはますます明確な対比を示し、一方では人間の滅びやすい姿から、却って永生の幻がうかび、金閣の不壊の美しさから、却って滅びの可能性が漂ってきた。人間のようにモータルなものは根絶することができないのだ。そして金閣のように不滅なものは消滅させることができるのだ。」(第八章)

考察 「ふたりの死が暗示するもの」

 この作品の中では金閣寺が、主人公の「私」こと、溝口にとって美の象徴として多大な影響を与えている。「永遠的」と表現される金閣と、終わりのある人間の生(=人生)は対比的に描かれている。とくに少年・青年期の溝口にとっては、女性と関係を持つ行為、さらには女性という存在自体が、人生を連想させるものとなる。一方で、金閣の美が溝口に与えるのは、「永遠・不変的」、「人生と対極にある存在」という印象の他に、状況によって大きくふたつに分けられる。ひとつは、主に溝口が金閣に対して「美しい」と感じる時の拒絶、強固性、異世界的存在感であり、もうひとつは溝口が女性と関係を持とうとする時(=つまり人間的な生き方に復帰しようとする時)に現われる、金閣の幻影が持つ許容、同次元的存在感である。以下では、登場人物の多くが「人生」を象徴する要素となっている中で、人生と遠い存在として描かれる2名の人物――友人として、溝口と人生との間をつなぐ役割を果たす「鶴川」と、人生を連想させる「女性」でありながら、溝口の美観を構成する要因となる「有為子」について考察する。

 有為子は、溝口が初めて「美しい」と感じた女性であり、のちの溝口の女性観に大きな影響を与える。有為子は溝口と相容れない存在として描かれる。溝口のことはほとんど意識しておらず、最終的には「世界を拒んで」しまう有為子は、作中で語られる金閣の美の象徴=(拒絶、別世界)に類似している。一方、鶴川は溝口の中学時代からの同級生であり、吃音を持つ溝口を初めて全面的に受け容れ親交を深めていく人物である。こちらは、溝口を受け容れる時の金閣が持つ印象(許容、同次元)と類似している。

 2人は劇中で死亡する数少ない登場人物である。有為子は恋人に射殺され、鶴川は恋人を親に認めてもらえず苦しんだ末に自殺するが、これはどちらも人間の手によって強制的にもたらされた「死」である。このイメージは、自然に生と死を繰り返していく人間というよりも、溝口の放火によって強制的に「消滅」させられてしまった金閣のイメージと重なる。

 このような点から、有為子と鶴川は先に挙げた「美」の要素を分担し、人間の身でもってそれぞれの美を体現した存在であるとともに、2人の死は「美は人為的な行為によってのみ滅びる」ということを表しているのではないかと考えた。さらに興味深いのは、2人の死には人生を連想させる「恋愛」が関与していることである。この点については、「美」の要素を体現する存在(有為子、鶴川)に対して「人生」の要素(=恋愛)が介入した結果起こったことであり、「美と人生は決して共存し得ない」ことを暗示しているのではないだろうか。「恋愛」によるふたつの美の破壊は、溝口に「裏切られた」という思いを強く抱かせるとともに、2人が結局は「人間」であったことを思い知らせる出来事だったと言えるだろう。(1186字)


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ざらっと読んだだけでも色々こじつけようとして自爆している感があるが、
4年前のことだから詳しく覚えていない(逃避)

ただ今更読んでみて訂正したい点は鶴川の扱いについてである。
この文章を読んでみると、鶴川はどちらかというと「人生」の象徴だったのではないかと思う。

有為子と鶴川の共通点は「金閣の美の象徴」ではなく、
金閣の二面性をそれぞれ象徴している」とした方が適切ではないだろうか。
ただ、鶴川について、人生は象徴しているが「人間」とは遠い、という所を
明確に記述する必要がある(あるいは、当時の私自身が混同していたかもしれない)

ざっくりと表現するならば、

「有為子と鶴川は人外っぽい立ち位置で、金閣の持つ印象を分担し合って主人公に影響を与えてきた存在であったが、人為的にもたらされた破壊でこの世を去った。主人公が『金閣のように不滅なものは消滅させることができる』といったように、2人も強制的な結末により、人生を連鎖させていくことなく消滅してしまったのだ」

といったようなまとめかたならば矛盾はないだろう。